第2^8回例会「タナトフォビア」
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「発表では死と狂気を類比的に捉えた上で分離する議論が行われており、個人的には死よりも狂気の方が全然マシどころかむしろ良いと感じたが、これは私が自分自身の人称的な感覚、つまり統覚に対して根本的に良い印象を持っていないからかもしれない。
結論部では、仏教とスピノザを融合したような解決策が提示されていたが、それでも私たちにはまだ見えない未来が意識されているため、やはり不安は依然として残り続けるようだ。」
Urasaki
「死により現在の快楽が奪われるという「喪失の恐怖」という面があるのではないでしょうか?
私の場合、死の恐怖はほぼそれです。」
Syun'iti Honda.icon「そもそも経験不可能な(私の)死そのものを恐怖することへの不思議さを端緒として議論が展開されていました。世界内(≒時空間)に位置づけられない死と、人称的に捉えることができない狂人(≒狂気)を理解不可能という点で類比的に捉えたうえで、死と狂気の不可能性が区別できるのは、現実世界が「中心化された可能世界(=特定の主体を中心にして開かれた世界)」と「中心化されない可能世界(=論理的な秩序が存在する世界)」の両方として把握されているためで、最終的には現実世界を過去として捉えること、つまりすべてが決定されていて変更できないものとして受け入れることが、死の恐怖を克服する一つの方法であるという内容でした。
参加者による活発な議論がなされていましたが、死と死後に到来しうるものについて、無であるのかそれとも制御できない状態なのかあるいは輪廻などそれ以外のものかといった点で様々な恐怖を考慮せざるをえず、やはり発表者の指摘した一人称的な死の経験不可能性とそれによる他者への死の経験の伝達不可能性が、死の恐怖についての問題の根本にあると感じました。」
ふかくさ「死んだら無に成ると前提した上でそれが怖いというのだが、無であると前提すればいかなる認知能力も無く、自覚能力も無いのだからそのような状態を表象することはできないし、それを怖がることはできない。世界が突然無秩序になることは恐ろしいが、世界が単に消滅することはそもそも恐れることができないのに、何を恐れているのか、これがわからない」
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【10月5日(土)西新宿】哲学道場例会「タナトフォビアの哲学」【第256回】 - TwiPla